「みんなカメラ持ってる時代なのに、なぜ 道ばたにゴミが落ちてるんだろう」
何かに感動したからシャッターを切る… 最初はそれでいいと思うんですけど、それだけじゃ悲しい。世の中をみていれば、気持ちのよいものも、そうでないものも目に映るはずです。たとえばタバコの吸い殻は路傍に横たわる遺体であるかのように強烈な違和感を私に与えてくる。居所をなくした、異質さがある。そういうものにも目を向けて、そしてそこからの行いが大事だと思っています。
心がけ程度ではあるんですが、私はこのようなゴミを見つけたら可能な範囲で拾うことにしています。慈善的な気持ちでしているのではなく、写真を撮る者のプライドのような気持ちで。…そもそも写真は映像よりもゴミに気をつけないといけないんですが、あとからレタッチソフトで消すんじゃなくて、見つけたその場から取り除くほうが あらゆる点でよいに決まっています。
そのような思考をしていくと、感動したから撮るんじゃなくて、感動できる現実をつくることから始めようと思うはず。この写真はあえてゴミを写しましたが、いつもならゴミを拾ったあとに写真を撮っています。そうやって現実を良い方向に改変していくことこそ 写真が教えてくれる大切な部分だと思うんです。
「撮ろう!」と思う人は必ず「撮りたくない」も経験してるはず。「撮りたくない」と感じたときには、たとえばゴミが散らかってるせいだったりする。じゃあ拾えばいいじゃないか、と。嫌悪感をセンサーにして見渡すことができれば世の中はキレイになる。好きという側の気持ちだけじゃ そうはいかないんですよね。私は「好き」と「愛してる」の決定的な違いが この部分にあるんじゃないかなって気がしてます。
カメラを持ってる人みんなが愛情を持って現実に接していればゴミなんてなくなるんじゃないかって思うんですよね。
今いる場所、今いる時間をみつめて
さっきは いきなりカタすぎましたかね。今度はお遊び。縦長の写真のほうがスマホでは見やすかったりするので試してみましょう。
最近は「写真のための写真」を撮るのをやめようと決めてみました。これは建物の外に出たら夕焼けがキレイだったんですけど、見通しのよい場所に移動しないでココから撮ろうと決めてシャッターを切りました。
決めたことをやるってのが大切だと思うんですね。自信をつけるためには特に。自分で決めたんだから!って思うわけです。移動すれば もっと感動できそうと思ったけど、そこをグッとこらえて、今いる場所、今いる時間の中で最高の努力をしたつもりです。
この写真がよかったかどうかはわからないですけど、楽しめる人がいたなら嬉しいです。
グラフィックは読み書きできるもの
先日の写真の中にも登場したヒイラギ ナンテンです。同じものを似たような構図で撮っていますが、それでも違った雰囲気になるのが面白いなァ。
さて、ナンテンは「難を転ずる」といって縁起がいいものとされているそうです。なので、これも集合住宅の植え込みに生えていたわけです。家内安全を願ってのことですね。もちろんクリスマスに用いられるヒイラギとは別の植物です。葉っぱのつきかたや 赤い実のなりかたが全然違います。
グラフィックを扱う仕事は こういう細かい知識が必要なときがあります。クライアントと揃って「まぁ、こんなもんだろ」と適当なグラフィックで済ませてしまうと、それを見た知的なお客様からは底が浅いと感じられる。「誰も指摘する人がいなかったんだろうか? ロクな集まりじゃないな」…そんなふうに思われてしまわないように、けっこうプレッシャーがあるものです。
グラフィックも文字と同じで、世の中には読める人と読めない人がいます。グラフィックを読める人は読み書きを学んだ人です。はじめから読める人なんていません。だから視覚表現と文章表現の優劣を比べるのはナンセンス。小説を読んで情景が思い浮かぶように、グラフィックをみて意味を解説できるのは普通のことです。きっと無声映画やパントマイムが人気の娯楽だった時代には 人々はもっとグラフィックを読み書きできたはずですが、現代はそうじゃなくなってきている気がして怖いです。
なんだか笑える話がひとつもなかったですが、考えてみたら笑える話なんて いつもなかったですね。今週はこれでおしまい。水曜 朝8時の定期更新はこんな感じでサラッと書いていきたいと思います。またね〜。
コメントを投稿