workdays by Syusay 毎週の関心事を綴ってます

スナップ写真ができるまで(メイキング)

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“みる” という本能 ──

この子は あなたをみる。

あなたは この子をみる。

誰かに習うまでもなく、私たちは “みる”。口や手よりも先に、目の使い方を覚える。

だから、もう一度、ちゃんと みる。





写真を撮る人も そうでない人も、みなさんは どうやって 作品が生まれるか興味がありませんか? 私はそのことに強い興味を持っています。今回は このスナップ写真が どのような過程で現れたか、私自身の探索を書きます。内容は時系列順に4つのステップに分け、撮影・現像・文化・集中と名付けてみます。(いわゆるプロテクニック紹介のような記事ではないのであしからず。反省の記録です。)





撮影

スナップ写真とは、現実をそのまま撮影することをいいます。文学でいうノンフィクション、映像でいうドキュメンタリーに相当します。誰も撮影時に作画意図を持たず、撮影者は傍観者を務めます。

その点、この写真の被写体は撮影者である私を意識していますが、まだカメラを向けられることの意味を知らない年齢です。もう何年か成長するとポーズをとるようになり 撮影者との関係性が写るでしょう。

さて、スナップ撮影で私が気をつけていることは少ないです。何かが起きそうな予兆を発見することと、とにかく撮れるように備えることです。
正直 あまりできることがない、というのが私にとって大切です。というのも 私が人からはよく「完璧主義」とか「血液型はA型でしょう」と言われるタイプで、自分でもコントロールを志向していることは自覚があるからです。スナップ撮影では周囲をコントロールすることなく、ただ自分だけをコントロールすることを鍛えられます。つまりコントロールすることをコントロールしようというわけです。

まず自分にできたことといえば、この写真を撮った部屋は やや暗く、窓から入る夏の陽射しのせいで難しそうな印象があったので、その対処をしようとしました。感度を100-400のオートにし、プログラムモード、オートフォーカスと、設定を探るための設定にしていました。

それと ズームレンズは標準域にして持っておき、身体が覚えている距離感を利用して立ち回ります。こうすると どこに立てば何が写るかが予めわかります。いちいちカメラを構えて歩き回っていてはシャッターチャンスを逃してしまいます。

私のスナップ撮影の考え方としては 被写体の動きを予想して 置きピン・流し撮りをするのと同じです。被写体としての人間は 車や鉄道よりも自由に動く分だけ予測は難しいところもありますが、流れを読んでしまいさえすれば人間同士であるため動作のトレースはむしろ簡単です。

そろそろ最初のステップで撮れた写真をお見せします。


泣き出した赤ちゃんをお母さんが抱き上げて立ち、歩き出すまでの間にシャッターを切りました。立ち上がる動きをトレースしてピントを合わせ、立った瞬間にシャッターを切って3枚。歩き出すと撮れません。歩く動きはトレースできてもカメラが揺れてしまうからです。撮影の瞬間は1秒ほどの出来事でした。実際には 瞬間に私が何をしているかの意識はありません。被写体に意識が向いていて、その上で1秒では感性で判断するしかないです。自動的に、身体が動くように動くしかないのです。

フレーミングはこのままで良いと感じたのでトリミングはせず、色や明るさをなんとかしたいです。やはり部屋が暗く、たまたま照明の逆光になったせいか厳しいものがあります。ISO400、1/60秒、F2.8の開放になりました。結果として撮れたから良かったものの、設定はISO800まで許可してシャッター速度優先モードにしたほうが安全だったと反省しています。こういった経験はレンズ購入の動機にもなりますね。






現像

私が使うカメラSD1 Merrillの純正現像ソフトであるSigma Photo Pro (SPP) は基本的な機能しか持ちません。そこで、他のソフトも使ってゴミ取りなどの部分的な修整をします。


これで、ひとまずは見れるようになりました。

撮影のステップを食材集めに例えると、ここからのステップは調理です。今回はスナップ写真なので なるべく手を加えないことが肝要ですが、お刺身だって血抜きをして ぬめりを除いて 切って 水気をとったところに醤油をつけるわけですから、何も手をかけないのが良いということは滅多にありません。生のトマトにかぶりつくときでさえ、実は農家さんの手がかかっています。人間が定義するナチュラルとは人工的なものです。ワイルドとは違うのです。

ここではSPPの段階でコントラストとシャープを下げて、全体を柔らかい印象に整えました。ところが、その後の修整ではコントラストとシャープを上げています。輝度ノイズを強く抑えながら肌も調整したので お人形さんのように可愛い仕上がりです。
これは『赤ちゃんは可愛い』という固定観念によった調整ですが、最初の色合いがあまりにも偏っていたので とりあえず標準的な方向にいきました。

例えるなら、森で迷ったので とりあえず拓けたところに出ようというわけです。でも、何のために森へ分け入ったのかを思い直さないといけません。それは次のステップで明らかになります。





文化

私は文化を大切にします。伝統を重んじるということではありません。文化とは、文字化・文章化・明文化、つまり言語化するということです。

例をあげると、親戚が京都への旅行から帰ってきて 京都の街のことを話してくれるとか、鉄道ファンが新幹線のウンチクを語るというのは、文化に触れたために起こります。どちらも文化の当事者でないはずの人間が語り部に変化したのです。

文化とは万人が納得できる説明をすることです。作家であれば作品に適切なタイトルとコメントをつけることです。私の知る限り、芸術家は ひとつの作品について小一時間は語れるものです。いえ、永遠に語れるのでしょう。それでも語り尽くせないから言語以外の表現に行き着いているだけに思います。実際に会うと芸術家は平均よりも おしゃべりな人が多い気がします。

さて、スナップ写真を文化するのは、なかなかに大変です。絵を描いたり作曲するのと違うのは 作品の全体像が一瞬で定まってしまうことにあります。考えるより感じるが疾く カタチになってしまうので、自分がなぜシャッターを切ったのか? を振り返って、心の深層にあるものを ひねり出さないといけません。

とにかく、まずは しっくりくるタイトルを見つけないとです。はじめは『ママとぴったり』と名付けてみました。これは冗長でした。ぴったりなのは写真を見ればわかることだからです。今、作家たる私が文化しなくとも観た人が気づいてくれるでしょう。そうではなく、私が無意識に気づいてシャッターを切るに至った動機こそ見つけて文化しなければいけないです。
それと、『ぴったり』という語感と画面が合わさって『べったり保育』を連想させることも気に入りませんでした。『ママとぴったり』では 子育てを知らない人にとっては微笑ましく、詳しい人にとっては悪いイメージにみえてきます。万人に通用する見え方を提供しないタイトルは文化ではないのです。この点でも はじめのアイデアはボツでした。

私は なぜシャッターを切ったのか? 改めて画面をみていくと、私は顔を撮っていたと気づきました。ぴったりとした身体の触れ合いの良さは 写真を見てから感じたことで、撮影の瞬間には みていませんでした。ピントを顔に置いていますし、幸いにしてトリミングの必要性を感じなかったので──構図の観点からも、私は顔を撮ったと確信できました。その中でも『まなざし』が要素だと感じたので、すぐに 次のタイトルに据えました。ひとまず良さそうに思ったので続けてコメントを書いていきます。

コメントに謝辞を含めることだけは最初から決めていましたが、残りの文字数を決めるのは悩んだ部分です。写真とタイトルは量的な限界を定めやすいですが、コメントは柔軟に使える空間が広いからです。はじめに書いたものは最終形より長く、内容は説明的でした。

この時点で写真はFacebookに公開すると決めていたので、目に触れる相手を考えた末に 詩的で短い文に書き直していきました。作品解説は より後段に構えることにして、より詳細に記述するものと決めました──それがこの記事になっています。

おおむねコメントが定まったところで、再びタイトルを見直しました。コメントの中に『まなざし』という語句を含めるのが難しかったからです。先ほどは冗長性を避けるためにタイトルを変更しましたが、真に要点となるものだけは冗長性を持たせて強調するために変更が必要になります。私はこの手法を反復と呼んでいます。
ここでは最も基本的な『みる』という語句をキーワードに据えて最終形のタイトルとコメントに至りました。






集中

写真 → タイトル → コメント → タイトルと来たら、最後に写真も手直ししないといけないでしょう。

コンセプトは事象の中心に降り注ぎます。その中心に向かって視覚表現や言語表現が放射状に帯び、円をつくり、全体となります。ドーナツのように中心は捉えられない場合が多く、というよりは捉えられないから『表現』しようというのが芸術の意欲的かつ野心的なところです。

結果的に、現時点では、『みる』ということの根源性を示すことがコンセプトだと結論しました。そこで『みる』を感じさせることを邪魔する要素を和らげるために写真を再構成していきます。

現像をやり直し、コントラストとシャープを高めつつ ノイズ処理は弱めました。瞳を強調するためと、生々しさを残すためです。それから背景を整理するためにハイライトを上げ、シャドウは引き締めました。続いて他のソフトを使って部分修整します。瞳にだけ さらにシャープを加えました。黄色いリュックに視線が奪われることがあったのでバイブランスを下げて画面を落ち着けます。お母さんの頭髪も同様に気になったので焼き込みで落ち着けました。また、お母さんの頭頂部の欠けは 初回よりも いくらか丁寧に描きこんでいます。




全体的に落ち着けたことで一見したときの見映えは低下したと思います。けれど、赤ちゃんが じっと こちらをみている、という雰囲気を出すことに重点を置きました。なぜなら実際は じっと見てくれてはいないからです。撮影のステップで書いたように本当は1秒ほどの出来事でした。そのような一瞬が、まるで永遠に感じられてくるというところに写真の面白さがあると思います。時間を錯覚させるという妙味を活かさないのであれば映像で残すほうがスナップとして適切な気もします。カメラという名称はスチルとムービーを区別しませんが、二つは明らかに異なる部分を持っています。

このような配慮は芸術鑑賞の目を持つ人のためにしています。初回の現像では大衆向けの調整を基本としたので、玄人目には見るべきところが少なく、むしろ見るほどに粗が見えてきてしまう大味なつくりでした。知識と注意力のある人が見たときのために「自分にはわかる」という発見による満足感を用意しておくことは大切なことです。そのような人々は「ここはもっと こうしたほうがよかったんじゃないの?」と意見をくれ、一緒に作品を成長させてくれる存在です。しかし、ダメなところが多すぎると指摘をするのは諦められてしまいます。「楽しみでやっているやつ、わかってないやつに、ここまで言うのは酷だ」という遠慮もあるでしょう。自分よりも少し上のレベルの人だけが 今の自分に必要な意見をくれるのです。

そして、その意見とは文化されたものです。文化しているから意見交換ができ、切磋琢磨することなども可能になります。意見がついてくると4つめの集中というステップは現実に限りがないものになり、一方で撮った写真の限界が明らかになってきます。もう撮り直すしかない ということがわかると、それが次の制作意欲になります。
興味があるというより執念といったほうがいいものです。それを繰り返して自分の限界を拡張したときに、作風が変わるということが起きると、そんなふうに考えています。

私の場合、Photoshopは趣味期間も含めると15年の付き合いがありますが、デジタル一眼レフを所有してからは3ヶ月のキャリアしかありません。ここ数年はPhotoshop離れをして、なるべく他のソフトを使うようにしたり、できるだけソフトを使わないようにもしています。道具を変えたり、避けたりすると、自分の変われない部分が際立ちます。

このように集中のステップは作品を仕上げるという過程の中で 霊的な成長を期待できる部分だと思います。日本の伝統的な『道(どう)』の世界ですね。そして手段のことを『具』というので『道具』となるわけです。道具とはカメラやソフトのことのみを指すのでなく、行為すべてです。




………

一枚のスナップ写真のメイキングと呼ぶには話が広がりすぎたでしょうか。スナップの面白さは、自分の中にいる知らない自分が垣間見えることにあると書いて 記事を終えたいと思います。自分で把握できる自分とは小さな存在なので、自分の限界以上の写真は 必ずスナップから生まれる気がするからです。

最後となりましたが、写真の公開についてお許しくださった お母様に感謝いたします。また、念のために本稿で使用した写真は画像サイズと画質を大幅に下げています。素材ではございませんので転載や使用はご遠慮ください。最後までお読みくださり ありがとうございました。

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